静かな眺めに

やっと、丘の上に出た。

乗っているのはかなり鮮やかな赤の細いシンプルなフレームの自転車。
ロードバイクだ。
久しぶりのコースの途中。長い急な坂を上りきった。
足をひねり、ペダルからクリート付のシューズを外し、アスファルトの地面に足をつく。

丘から見渡せる景色は、
西の空は、今日最後の日差しが届けとばかりに赤い夕日が輝いている。
東の空は、くすんだ薄い蒼に、これからが自分の時間と上限の月が白く浮かんでいる。
冷たい空気にこの景色はよく似合い、美しい。

今週、昔馴染みの女性と食事を一緒にしたのを思い出していた。

“旦那と別れたの。愚痴を聴いてよね。”

いつも、そんなふうに突然のメールで呼び出されていた。

“内容がシリアスすぎて、俺には耐えられそうに無い。”
“大丈夫。4年の結婚期間は出来の悪いドラマにしか思えない。”
“まだいいよ。笑えないジョークのような俺の今の状況はどうする?”
“じゃあ、あなたの今を笑ってあげるわ。いい肴ができた。飲みましょう。”

こんな感じで一方的に決められてしまうのだ。

彼女の結婚までの経過は当人から逐一報告を受けて、
彼女を親友と呼んでいる周りの女性たちより遥かに詳しくなっていた。
そして、新婦の男性の友人の出席はありえないという
昭和初期的な彼氏の考えを尊重した彼女に招待されなかった結婚式から
1年間の蜜月も、甘いカクテルのようにメールか電話でいつも聴かされていた。
2年が過ぎたあたりから、彼女の報告は途切れがちになり、
たまに呼び出されても、他愛の無い話に終始して、
彼氏と何かあったかなとは思っていた。
ただ、彼女は昔から、人の、特にその時々付き合っていた彼氏の悪口は俺にはしない。
少なくても別れるまでは。
そして、別れると当然のように呼び出されて
一晩アルコール漬けになる彼女につき合わされるのだ。
結局、今回もいつものように彼女にとって優秀な聞き手として
ビストロ、バー、居酒屋と脈絡の無い組み合わせでつき合わされた。

とうとう、アルコールと夜に弱い俺が音を上げて彼女を店から連れ出し、
彼女のマンションまで送ろうと歩き出した。

「でもさ、あんな男を何で好きになったんだろう?
4年間も一緒に居てさ、残ったのはがらんとした部屋と指輪の跡だけ。」

彼女はかなり酔っている。“なったんだろう”が“なったんらろう”に聞こえる。

「恋は盲目っていう典型じゃない? 君の結婚まではゼロヨンレースかと思った。」

彼女は下唇を軽く噛んで俺を睨みながら

「だって、あの時はこの人と会うために35年間生きてきたんだって思ったんだもん。」
「俺も結婚する前の同棲時代はそう思っていた。」
「いまは?」
「知ってのとおり。・・・これから先は神のみぞ知る。」
「神のご加護があらんことを。」
「神様にとっては、君のこれからのほうが優先事項らしいけど。」
「ホント? 神様、よろしくねー!」
デカイ声を上げた君を酔っ払いのサラリーマンの一群が眉をひそめて見て行く。

「でもさ、後って、次ってあるのかな?」

二度目の“でもさ”をうつむいて彼女は言った。

「大丈夫。また誰かが君を愛してくれる。」
酔っ払い相手じゃないと口にした瞬間に、
そこのビルの屋上から飛び降りたくなることを言って励ます。

「ありがとう・・・。」
そう言って、並んでいた俺の右手を握って寄り添い歩き出した。

「・・・おい。」
「部屋までよ。」
これもいつものとおりだ。

マンションのエントランスに着く。
握っていた彼女の手を、左手を使ってそっとほどいた。
「着いた。部屋に入ってゆっくり休みな。」
彼女は酔った目でこちらを見つめる。
「ん。寄って飲み直ししない?」
「そこまで酔っ払っているんだ。どうせ、すぐ寝るでしょ?」
「平気よ。」
「“おやすみ”だって。いつものように」
「いつものように?」
「うん。いつものように。」
「・・・そっか。・・・おやすみ。」
これもいつもどおりのやり取りだった。


この清々しい景色のようにシンプルな美しさが魅力の彼女。
幸せになってほしいと願う。でも、それを叶えるのは俺ではない。

整いだした息が白くなっている。
夕日の光が赤みを増し、月の輝きが増していた。
ペダルにクリートを嵌め、踏み込んだ。
ロードバイクは重さを感じさせず、静かに進みだした。
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by curtis_01 | 2007-11-17 18:51 | 自転車
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